想い出

美唄歯科医師会メンバーによる想い出を掲載しています。

雨田 実 (元会長)
「その後の10年」
 「その後の10年」のタイトルには相応しくないかも知れませんが、温故知新(論語)の心で書かせていただきます。
 大正から昭和初期の東京浅草六区、活弁の頃
 トーキーのなかった無声映画の頃は、活動写真をやくして活動と皆がいった。
白黒でトーキーでないから、スクリーンの前が一段低くなっていて、オーケストラボックスといいそこで洋楽器と和楽器を合奏する。開演間近になると楽士たちが入ってくる。ベルが鳴る場内が暗くなると、舞台の片袖の小机の豆ランプが台本を照らす。活動弁士がさっそうとあらわれる。観客から弁士に声がかかる。
 弁士では、徳川夢声、古川緑波、山野一郎、生駒雷遊、国井紫紅、染井三郎、井口静波などを覚えている。大勝館の大辻司郎が面白かった。西洋もの専門で、独特の声を頭のテッペンから出して、女性は誰でもメリーさん、主役の男性はジミーかロバート、ギャングはジャックと決まっていた。馬から落ちて落馬して赤い顔して赤面したのでありました。とか、メリーはロバートの胸元にとか泥棒が出てくると勝手知ったる他所の家などいいかげんでも、それが受けて看板だった。
 活弁は、現代劇、時代劇、洋画、悲劇、喜劇、それぞれ得手、不得手があって、お客は特定の弁士に対する熱心なファンが多かった。
 無声映画の代表的役者は、眼玉の松ちゃん、尾上松之助で、自来也や荒木又右門を見てチャンバラを楽しんだものだ。これに続いて阿部九州男、板東妻三郎などを良く見た。林長二郎は林長、板東妻三郎は板妻、嵐寛寿郎は嵐寛と呼んだ。女優では酒井米子、鈴木澄子、琴糸路、現代劇では栗島すみ子、川崎弘子、高田稔、鈴木伝明がいた。西洋物ではジゴマや三銃士弟のダグラス、フェアバンクス、トムミクスが好きだった。女優ではマレーネ・デートリッヒ、グレタ・ガルボ、ダニエル・ダリユーなどを覚えている。喜劇では自分は絶対に笑わないバスターキートン。ドタバタ時代のチャップリンなどが人気の中心であった。マルクス五人兄弟のインチキ商売というのがインチキという言葉の始めではないかと思う。
 一幕終わって明るくなる幕間には肩から帯をかけて前に盤台を持った売り子が「エー、オセンにキャラメル、エー、アイス」と独特の声で席の間を売り歩いた。ラムネを良く買ったがあんなにうまくアッという間になくなってしまう、はかない飲み物は他にない。まことに庶民の味であった。と今でも思っている。
 昭和ひとけたの頃でターキーの愛称で15歳の彼女がシルクハット、タキシードという姿で司会をして多数の若い観客の心を据え、スターダムにのし上がった。松竹楽劇部の第一期生がターキーこと水の江滝子。翌年の第二期生が津坂織江である。昭和7年11月、松竹少女歌劇部(SDK)と改称され、東京劇場で「らぶぱれいど」を上演した。時に築地川をはさんで新橋演舞場では宝塚が「ブーケダムール」を上演していた。宝塚ファンは山の手のお嬢さんが多く、松竹は下町の娘さんが多かったといわれた。昭和8年10月、東京劇場で「タンゴローザ」が上演され、ターキーの伊達男役が大好評を博し160回の講演記録を樹立。昭和12年7月浅草に定員4,059人の国際劇場を開場、以後ここを常設劇場として長期にわたって帝都の人気をさらっていった。
 男性が女性になりきって演じる歌舞伎の反対に娘が男性になりきって演じる少女歌劇は戦後の大和撫子の多く存在した頃に比べて今の時代には浅草に出てきても往年のようなファンは集まってくれないのではと思えてならない。
 前述の活弁の盛況も昭和5年トーキーの導入開始後、オールトーキーに映画界が変わるのは文字通りアッという間と覚えている。大部分の活弁達が紙芝居に転職したとかの話は本当であろう。子供心に感ずる程上手な紙芝居屋を見かけたこと等々を遠い昔のことなので夢とも現ともなく覚えている。
 大学は出たけれどとか、ルンペン、煙突男、ストライキ等の言葉が流行した前途に希望を持ち続けることの出来得ない時代の如く覚えている。人口10万あたり50人の適正数を全国平均74.6人を上回り札幌市103.5人道内76.6人の歯科界の現状が余りにも似ている。それからの10年のタイトルに相応しくなくなってしまった。
大坪 義和 (副会長)
 「五十年のあゆみ」が発刊されてはや十年。この間新入会員六名、その内女性会員三名で美唄歯科医師会も以前より少し明るく花やいだ雰囲気になり喜ばしいことである。
 一方、この十年で人口が四千人減少し、歯科医院は四軒増加している。当然、医院間の競合が生じ医院経営に苦労する。特に開業して日の浅い先生方は夜遅くまで診療して大変である。歯科医師会として何か役立つことはないかと思う。
 話はかわるが今後の美唄歯科医師会の在り方について、そろそろ結論を出さなければならない時期が迫っている様に思われる。来年は私も還暦、今の心境は「少年老いやすく学成りがたし」であるが、もう少しの時間若い人に迷惑かけない程度に診療を続けたいと思っている。
高橋 典弘 (三師会幹事)
美歯会に入会して
 開業時に「五十年のあゆみ」をいただき、美唄歯科医師会の貴重な写真や活動の歴史を知りました。私は会に入会し、まだ7年にしかなりません。まだまだこれからです。
 入会後の活動のなかで、小学校の歯科検診にて数十年ぶりに母校に入りました。
 現在の校舎は、私が5年生の時に完成し、コンクリート3階建ての近代的なイメージでした。暖房もスチーム式で石炭をくべることがなく蒸発皿と一緒に座り、お尻を暖めていたのを思い出します。(中学ではまた石炭ストーブにもどりましたが、高校は途中から新校舎になりました。)
 久しぶりに歩いた構内は教室や廊下、階段などが小さく感じ、手洗い場の蛇口の位置が-「こんなに低かったか」と思いました。小学生当時、校長室に入った記憶が無かったので、検診時の挨拶でソファーに座っても落ち着かない感じでした。
 開業後数年して、中学時代の部活の先生が来院されました。先生はきびしい人でした。
 曲がったことはきらいで、愛情もありましたが、とにかくきびしい先生でした。そんな先生が待合室でニコニコと老いもせず、昔より小奇麗になって座っていた時は、おもわず「起立!きょうつけ!礼!」となりそうな感じでしたが、先生は、熱心にTBIに耳を傾けて下さり、定期検診にいらしています。その都度緊張しています。
 現代はデジタル技術が進み情報やコミュニケーションも進化していますが、自分はどちらかと言うとアナログ的な人間だとおもいます。ふる里として美唄の良いところは残って欲しいと思います。
現在は美唄三師会の幹事をさせてもらってますが、今後とも宜しくお願いいたします。
平 和隆 (専務理事)
美唄歯科医師会60周年によせて 〜その後の10年〜
 60周年おめでとうございます。
50周年から私にとってのこの10年間は思いもよらない期間にも思えますし、振り返ってもあまりにも早い10年間だったように思います。
 入会させていただいてから数年で50周年を迎えた時に、当時40歳だった私の生まれる前から受け継がれて来られた先生達のご尽力の賜物と、その大変さと努力に感謝していたのを今でも覚えています。
 私と言えば日々の仕事にただ忙殺される毎日を過ごしていたわけでしたが、その後学校担当理事、専務理事を拝命させて頂き、微力ながらも会務に携わる事になるとは、微塵も考えていませんでした。しかも、ほとんど小森会長に仕事のほとんどをお任せしてしまい、この場を借りて感謝とお詫びを申し上げます。
 会のほうも平均年齢が、年を経ることに上昇していた所ですが若手の先生が5人増え、多少若返りが図られた所です。会務もこれから法人化や地域医療の諸問題など等、様々なことが増えてくるかと思いますので、戦力になっていただきたいと思います。
 私事になりますが、2年ほど前からアンテナショップ的な分院を出し、保険外のみでの診療を行い、新しい医院経営の道は無いものかと模索中です。
 ただ美唄市の経済の明るさが見えてこない中、人口の流失、医療費の抑制、歯科医院数の増加による各会員の経営の困難さがこれからは今以上に考えられると思います。
 70周年を迎える頃には、もう少し明るい話題が増えていることを願いつつ、美唄歯科医師会と皆様のご益々のご発展を祈念いたします。
宝崎 錠二 (前会長)
「この10年を振り返る」
 美唄歯科医師会創立60周年おめでとうございます。平成10年に『50年の歩み』編集委員会を結成、小森編集委員長を中心によくぞ『50年の歩み』を発刊されたものと今更ながら驚きと感激で胸温まる思いがあります。早いものであれから10年が過ぎました。60年の記念に一筆書くようにとの事、この10年を振り返り思い出される事柄を書き留めてみました。
 平成8年の美歯総会に於て、雨田会長より次年度退任のお話がありましたが、あまり突然でしたのでその時点ではまだ先の事と考えておりました。日がたつに従い副会長としての立場から責任を感じておりました。年令の順から小生と扇谷明典先生の二名のみの為、長年専務役を受けておられたので何度か会長職のお願いを申し上げましたがその度に固辞され、やむをえず何も知らない小生が祭り上げられた結果になりました。新執行部の編成には小森先生、大坪先生、の水面下でのご協力を頂きその時の条件として副会長には小森先生、専務理事には大坪先生である事をお願いし、承諾された時は本当によかったと思いました。
 次期会長は小森先生をご推薦する腹積もりありましたので、これで美唄歯科医師会も当分の間統合されずに済むであろうと安堵したしだいです。ともかく新理事には平隆一先生、孫泰一先生、吉村治範先生、事務長には今まで通り桜田昭美氏、補佐役として松谷昭子さんが参加され、美唄歯科医師会にとっては画期的な若い陣容となり心強い船出となりました。
 社団法人としての会の運営、北海道、北海道歯科医師会との関わり又市との連携、恒例の催し等、少人数の会員にとってあまりにも過酷な運営に唯唯驚き、前雨田会長の長年に亘るご奉仕に頭の下がる思いでありました。これも一つの天命と受けて、何事も第一番目は歯科医師会、二番に仕事と割り切り他は三年間目をつぶる覚悟をしたしだいです。
 この中にあって新執行部が取り組まなければならなかった最重要課題は、創立50周年記念事業でありました。『50年の歩み』発刊のご挨拶で申し上げましたが、諸事情の為式典並びに祝賀会を取り止めざるをえませんでした。然し記念誌だけは発刊させなければと思う気持が、冒頭申し上げた胸温まる思いとして今も脳裏に浮かぶのです。
 一期3年は無我夢中の内に過ぎました。美唄市も少子高齢化が進み、美唄保健所が無くなり今まで実施されていた歯科関連の事業が市に移管されました。中にはフッ素塗布事業は、各診療所との委託契約となり毎年契約更新する事になりました。又、高齢者健康美唄一コンクールも医師会協同の行事として行われておりましたがこれも中止となりました。
 この様な時、臨時総会で役員改選があり退任できるものと思いきや、一期で降りる会長は何かあったと思われる、最低3期は勤めなければと脅かされる始末、理事会で審議途中になっていた件もあり、このまま2期めをお引受けする事になりました。
 平成12年頃、事務員の松谷昭子さんが一身上の都合により退職され、新しい方が見つかるまで大坪先生の職員の方(菅原千秋さん)にお手伝いをお願いしました。桜田事務長も長年の勤務で退職を希望しておりました。長い間のご苦労を思う時、会への御奉仕が大きかった事に頭がさがります。法人の複雑な事務を次の方に継続伝承して行く為に大変ご迷惑をお掛けしたのではと今も心苦しくも感謝しております。幸いにもご縁があり、近藤理恵女史に巡り合今では美唄歯科医師会にとってはなくてはならない人材となっております。
 小森副会長の提案として、道歯、郡歯との連絡事項等についてペーパーの遺り取り又、会合、会議の召集が多く時間浪費と経費の無駄につながっているのではないか、I・T活用によって、事務の簡素化と時間の節約、しいては経費削減になる。と言う彼特有の革新的考えに、私も常々感じていた事でもあり、社会がその方向に動いている時でもありましたので検討して頂く事になりました。
時間はかかりましたが、3期終了時には全会員の70%近くが末端機器を装備するようになったのではないでしょうか。この事は郡市区歯科医師会より一歩先んじで居たように思われました。ここに至るまでの小森副会長、そして近藤理恵女史の献身的ご協力があったものと感謝申し上げます。
 2期目の活動計画の中に学校歯科医管理委託料の抜本的見直しと言う大きな問題がありました。この事は税法上の問題として国税局に指摘されていた事もあり、学校歯科担当理事の平和隆先生に名案がないかご検討をお願いしました。
理事会でも何度となく協議しましたが困難な面が多くこのまま次期執行部に継続審議となってしまい誠に申し訳なく思っています。この様な事もあり、市教育委員会との懇談会を持ち児童の検診後ケアについて毎年行われる図画・ポスターコンクール、学校歯科保健優良校表彰モデル校の推薦等々のご協力をお願いした事が思い出されます。図画・ポスターコンクールについては度々道、道歯の方から賞を頂いたのは子供達にとっては嬉しい事でした。この頃は学校歯科に関わる事項が多かったように記憶しております。
 平成9年は臼田日歯会長と甲斐道歯会長の時代で、その後日歯の不祥事がありここを境として歯科界には何ひとつ明るい希望もなく、長いトンネルに突入した思いでした。
 平成12年永山道歯会長率いる新執行部が受診率向上対策を掲げ誕生6年間お世話になりました。この頃から医療界の締めつけが厳しくなり、日本歯科医師連盟と日本歯科医師会の組織は完全に分離独立性となり透明化が要求されました。連盟と関係の深い諸諸の選挙関連についてはここでは触れませんが、それなりに皆様にはお世話になりました事お礼を申し上げます。3年に一度の参議院議員選挙は、我々の職益代表として何としてでも国会に送らなければと、平成7年7月中原爽先生が初当選、以来2期通算12年間を歯科界の為にご尽力され任期満了により退任、その後の不祥事により残念ながら次期候補が見送られ、平成19年には念願の女性議員、石井みどり先生が歯科界の危機を背負っての当選、闇の中に光が刺して来たような気がしました。日歯の予算に関する要望事項は多々ありますが、何と申しても歯科医師の適正な需要(早期削減)社会保障費2,200億削減の撤廃と歯科診療報酬の引き上げ、この三点だけは声を大にして訴えて行きたい、そんな気持でいつも選挙に参加しておりますが....
 平成10年に美唄市高齢者保険福祉計画及び介護保険事業計画策定委員会と言う大変長い名称の委員に医科歯科薬科所属団体として推薦、3年任期で市長から委嘱されております。平成18年1月から美唄市地域包括支援センター運営協議会が設置され、そのまま上記の策定委員会に包括されております。(策定委員会は年間7回支援センター運営協議会も同時に行われる)介護認定審査会の委員に雨田先生が参加されているのはご承知の事と思います。人口減と高齢化に伴い、益々介護保険事業の重要性が叫ばれて居るところです。
 8020運動の一つとして毎年行われている高齢者の歯のコンクールについては、いつも孫先生のお世話になり、心から感謝致しております、参加者が少ない事もあり啓蒙の意味も含めて、参加者全員を美唄市高齢者福祉大会に於いて表彰する事とし、それなりに評価されておりました。この時高齢者健康美唄一賞も行われておりましたが、何時の頃からか中止となり現在に至っております。以前に元会長雨田先生の参加もあり、今年は吉村先生のご尊父前医師会長の参加があり、道歯への推薦が決まったとの報告を受けました。地道ではありますが地域に密着した活動として、これからも継続される事を期待致します。
 思いつくままの10年を振り返り、色々の事があったと思いつつ、思い出なのか随筆なのか、記録なのかわからない箇条書きのような文章になり申し訳ありません。この10年の間に新規に開業された会員、長い間地域の歯科医療に貢献され廃業された会員、他に移転された会員等、美唄歯科医師会にも大きな変化があった10年だったと思います。
 私事になりますが、幸か不幸か次女が帰って来て私と診療する事になり、すっかりおじいちゃんになりました。動ける内は少しでも職業奉仕が出来ればと思っております。47年間お世話になり本当にありがとうございました。諸先生方も末永くご壮健で、伝統ある美唄歯科医師会が益々ご発展される事をご期待申し上げ筆を置きます。
 最後に40数年、我が生業としての座右の銘
『ちょっと待て、その歯削るな抜髄するな、抜歯はよくよく考えて、予防に勝る治療なし。』

宝崎歯科クリニック
宝崎 錠二
宝崎 幸子 (監事)
 美唄歯科医師会60周年おめでとうございます。今当時全会員が集結してつくり上げた熱き思いの「50年のあゆみ」を前にして過ぎ去っていった10年の時の流れをなつかしく思い起こしております。
 この間、世の中の情勢は歯科界もいうに及ばず刻々と変化し多岐に渡って来ております。
 平成10年に記念誌が完成しその後3年程たってから半世紀近く続けて参りました診療生活にピリオドを打ったことになったということは、私の人生にとりましては何にもまして大きな変化といえましょう。
 定年退職のないこの仕事、この環境の中で自分はいつまで今の状態、条件で患者さんサービスが出来るのかということをふと考えた時、呆然としたことを覚えております。
 当時天職といっていたこの技術を途中で辞めるということへの抵抗はかなりありましたし、その頃、朝時間になると「あ、行かなくては...」と落ち着かぬ日々もありましたが、今はすべてを払拭してくれたのではないかと思っております。幸いにも何より男らしく英邁、その上心優しく親切、そしてきさくなK先生が後をつないで下さるということになり、主人共々私も大安心でお願いすることになったのであります。
 私にとりましてこの10年は第一線をまっしぐらに走って来た職業人から女性として「主婦」という別世界?これまた多彩な広がりのある仕事人?になったということであります。女として人生の最後は家庭の中でという主人の考えそれをささえて下さるK先生、私は心おきなくバトンタッチすることが出来て本当に幸せ者と思っております。感謝あるのみであります。ちなみに家のまわりの自然は、私の開業の頃からあった大きな白樺の木2本を伐採し、庭の景観が変わって明るくよくなりました。花壇も白く見事に花をつけてくれる香りのよいカサブランカ、薄紫の可憐な花びらをいくつもつけるアガパンサス、これも目を楽しませてくれました。
 いよいよ夏も終わりです。芝生は主人が管理。今日も芝刈り機の音がしておりました。また、春先に知人が野鳥のえさ台を設置してくれまして、景観が一寸変わりなぐさめの一つになりました。もうそろそろ渡り鳥がやってきます。
 亡き両親が残してくれたこの庭、小森歯科医院の診療室の窓からも見える木々のたたずまいは、これからも四季折々に訪れて下さる患者さんともども心の慰めになることでしょう。
 美唄歯科医師会の今後の益々のご発展と会長先生始め、会員の皆様方の先ずご健康をお祈りし乍ら...               宝崎 幸子
前山 善彦 (前美歯会理事 旭歯在籍)
『その後の10年』
 社団法人美唄歯科医師会創立60周年おめでとうございます。心よりお喜び申し上げます。
 平成10年からの5年間を振り返ると、個人的には激動の時代でした。娘が10年に生まれ、フッ素塗布事業も市の保健センターから希望された歯科医院に委託して行われました。また、3名の若手の先生が新入会されました。患者数の激減もあり、従業員数を減少させて診療していました。少子高齢化を切実に感じておりました。一番の激動を物語るものは、美唄歯科医師会からの転出、旭川歯科医師会に転入し、現在に至っていることです。
 平成15年からの5年間は、新しい環境に慣れるために一生懸命でした。土曜日、日曜日も仕事のため、暫くは体が慣れずに苦労しました。平成15年11月10日には、前会長の宝崎先生ならびに理事の先生皆様のご配慮により、未熟者の私に講演の依頼があり美唄のホテルスエヒロにてセンターでの障害児・者の歯科診療について講演させて頂きました。半年ぶりに会員の皆様に再会できて大変うれしく、心温まるご配慮に感激したことを今でも覚えております。その節は誠にありがとうございました。歴史ある美唄歯科医師会の末席に加えて頂き誠に光栄の至りです。長い歴史の深い重みを痛感しております。
 最後に、美唄歯科医師会の益々のご繁栄と会員皆様のご活躍並びにご健勝を祈念致しております。
村上 孝男 (理事)
負け組み歯医者の10年
 この10年間、美唄では財政は逼迫し、少子高齢化のなか人口は減少し、確実に衰退の道を歩んできました。中央バスのターミナルがなくなるとはかつては思ってもいませんでした。そのうち美唄駅も無人化するのでしょうか。1歳半、3歳児検診の受診者数の激減にもおどかされます。私の歯科医院も美唄同様に右肩下がりに推移してきましたが、ぎりぎりのところで残っております。ネットの掲示板に「美唄で都会並みに増えたものといえば、コンビニと歯医者」とあり、納得しました。あれ?でも最近はコンビにも閉店してますよね。次は歯医者の番? 私でないことを祈ります。
 歯科界では1億円不正献金事件は大きな痛手でした。不祥事追求の波にわれわれもさらされることとなり、厚労省はそれを追い風に平成18年度の保険改定では有無を言わさぬものとなりました。保険点数のマイナスは仕方ないとしても、無駄な紙だし等、事務経費の増加と労働量の増加にはさすがに閉口しました。もっともその厚労省も年金問題などかなり大変なことになっています。批判する側も明日はわが身と、追及するときは徹底的やる風潮に見えます。それはともかく、平成20年度の改定ではかなり改善されましたが、それが歯科医師会が支援する自民党の参院選の敗北によるものとはなんと皮肉なことでしょう。もし自民党が勝利していたらと思うと恐ろしくなります。
 日本最小とうわさされる美唄歯科医師会はそのような中で、会員数も増え、きわめて堅実な道を歩んできたように思います。ただ会にとっては、組織のスリム化や公益法人化の問題など、今後の10年が正念場のように思います。10年後わが歯科医院とわが歯科医師会はどうなっていることでしょうか。
 以上負け組み歯医者の回想でした。
桜田 昭美 (前事務局長)
昭和26年4月1日 美唄歯科医師会 発行の会報 特報第1号よりの抜粋 随筆  口腔検診に当たりて
 陽春の候、雪がきえてなつかしい土が出ると仕事も手につかず、遂フラフラと外に出て見度くなる。老眼鏡をつけて、エンジンを回す我々老生と言えども何となく若返り、若々しいネクタイを探しだして出かけて見たり、軽快にスプリングコートなどで一寸旅行としゃれて見度くなる。閑話休題、さて世は全て活発な活動を開始しだした。殊に、その最もたるものだろう。我が美唄歯科医師会にも、伝統の学童口腔検診が目前に迫っている。会の功労者高橋翁をはじめ新進気鋭にいたる迄、そして中に紅二点をも加えて、今年も楽しい中にも真剣に予防医学の一端を担うに協力一致する事となった。
 20年余のこの行事を見みれば、労多く功少しの感なしと見る向もあるが、それは皮肉な見方であって、対外的に歯科医の存在(価値としての)を高め、我々の意図が正しく認識せられ従って人格的に歯科医師が評価されている事は論をまたないと信ずる。更に対内的には一層効果的である。第一に会員同氏の親和とそれに伴う言うにいわれぬ空気が(雰囲気)ある事。第二にお互いに人格を認め合うことによって、人格的淘汰がなされる事。少しでもエゴイズムが公共協同事業に依ってためられる事である。
 宇宙全体の運行には協同の精神が存在すると言う(それを信じない人々もあるが)人類の社会も協同体であらねばならぬ。我、一個では存在し得ない。
まして、同じ事をなし生活する我々にとって、このグループは得がたい有機的協同体であろうと思うのである。さらに、学童に及ぼす内腔歯牙に関する心理的教育は必ずあるものと信じ疑わない。外の形に現れないに過ぎないものだ。
 とにも、かくにも、張り切ってやりましょう。    北野 生
北野先生が随筆を投稿されてから8年後の昭和34年度の学童数一覧表(下記)を見ると、エネルギー革命(石炭期全盛時代)とは言え、余りの多さにびっくりしました。昭和34年度の会員数は21名、役員が事務所(会長宅)で23,387人もの検診日程表を作成するのは大変な仕事でした。

昭和34年度 幼稚園 6園 990人
小学校 22校 16,352人
中学校 10校 6,045人
  23,387人

しかし、全国的の石炭産業もエネルギー革命をまともに受けて衰退し、閉山となり従業員も山を去り、加えて全国的な少子化時代とも重なり、57年後の学童数は残念ながらこの数が現実です。

平成20年度 幼稚園 3園 82人
小学校 8校 1,197人
中学校 4校 696人
  1,975人